Aug. 22, 2024

Birthday

 

私は1940年8月22日に神戸市で生まれた。末弟の光司も1949年8月22日に福岡市で生まれた。兄弟の上と下が同じ日に生まれ9歳の歳の差がある。この日で私は84歳、光司は75歳、二人だけが四人兄弟で今も元気だ。

 

青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方をいう。

薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな肢体ではなく、

たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。

 

青春とは怯儒を退ける勇気、安易を捨てる冒険心を意味する。

ときには二〇歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。

年を重ねただけで人は老いない。

理想を失うとき初めて老いる。

サミュエル・ウルマン

 

我が家の隣の兵庫県立美術館にある安堂忠雄記念館のオブジェ「青いリンゴ」に添えられた銘板にある詩だ。

青春をいつまでも失わない人であれと安堂さんは来館者に勧めている。私にも共通する詩文だ。今が青春 !!!

         いつまでも若さを失わず青年の心で心老いず前へ前へと挑戦して行きたい。

齢 84 De 青春 だあ !!!

 




Olympic Games    Paris 2024 閉幕



左上:閉会式で日の丸を持って入場する日本選手団 旗手の北口樺花とSHIGEKIX 左中:閉会式で虹色にライティングされたフランスの競技場

        左:演出でピラミッドをつくるパフォーマーたち 右:明かりが消えた気球型の聖火台(パリ・チェイルリー公園)

フランスのロックバンド「Phoenix」の演奏で盛り上がる各国の選手たち



アーティストたちがライブを行った。


社説

「尊い犠牲」 誰が死なせたのか

8月16日お盆の明けた後すぐ台風6号が列島を襲いお盆で帰省の人に影響が出た。17日は台風一過快晴の朝だ







10時頃釣り船が沖合の突堤で朝早くから釣りを楽しんだ客を乗せて帰ってきた
10時頃釣り船が沖合の突堤で朝早くから釣りを楽しんだ客を乗せて帰ってきた

同志社の学生募集だ

書き遺すこと

就職時事情

昭和38年1978年3月私は同志社大学文学部文化学科美学芸術学専攻科を卒業した。母とアメリカ人のJ.L.WARD

さんの力添えで無事卒業した。卒業に先立つ1年前、美学科でそこそこの成績を取っていたので就職活動に入り私の友人は茶道の師範や陶器の制作者、舞台俳優や映画の世界に入って行ったが私は母方の叔父が時事通信にいたのでそれに憧れて新聞記者を目指した。何人かの友人も讀賣や日経その他の新聞社や代理店などの就職試験を受けていたが私は産経新聞大阪本社の文化部音楽担当を目指して試験に挑んだ。新聞記者試験だがその年は関西大学天神橋六丁目校舎2、3クラスを借り切っての試験で1次試験を4月に受けてなんとか残り2次試験のインターン試験を受けることになった。2次試験は大阪本社社会部で夏の甲子園高校野球西日本出場校を主に現場取材し記事を書いた。東京の早稲田実業が優勝した年だった。その取材の後本社の文化部に配属されラジオテレビ、ラテ欄の記事や整理の仕事に就いた。そこで大きな出会いがあった。文化部のラジオテレビ欄責任者の方からテレビ局の試験を受けてみないかと打診された。その頃出来てまだ5年の関西テレビは関西各地の新聞やラジオやテレビ局の社員、新卒大卒の人を募集していてその方の兄のも関西テレビの報道に移られたとのこと、私もチャレンジしてみないかと勧められ、早速11月試験を関西テレビで受けて5、60人の受験生がテレビを目指して受験したほとんどの人は映画演劇を目指していた方が多かった。私は高校時代以後ブラスバンドやオーケストラで音楽をやって来たので音楽に関係する制作の現場を目指した。12月に内定通知が来て産経新聞の合否を聞きに戻ると文化部では美術専攻の学生が1位で音楽志望の私は2位、補欠ということでその1位の学生は京都大学美学専攻の人で私の恩師も京大の美学からの方だったのでこれは一生頭があがらなくなるのは嫌だと思い関西テレビに就職する決心をした。関西テレビは開局してまだ5年で人が欲しくて私も受かったのかもしれないが早速入社前にアルバイトに来て欲しいということで入社式も何もなく現場で働き始めたのだった。新聞記者も大変な仕事だがテレビ界もきつかった。38年間何とか勤めて卒業したが、関西テレビはその後も順調で私もその恩恵に恵まれて84歳の今でも関西テレビの企業年金を厚生年金と同じくらい戴いて何とか世間に不満もなく暮らしている。来年で85歳、よくもあのハードな人生に打ち勝てたとつくづく想う。