Aug,27, 2024 



妻の千恵子は変わったファンで先日亡くなったアラン・ドロンのファンでもあった。妻の年代で良くあることかもしれないが、テレビでアメリカのブリンケン国務長官がイスラエルの紛争で仲介に出るニュースのたびに顔を見るとアラン・ドロンだ !!! と画面に食い入る様になるのを私はなんとも可笑しく見ている。アラン・ドロンや石原裕次郎らは彼女の青春のかけらなのかもしれない。ブリンケンはドロンに似た男前だそう・・・1??



      ダールカレーの作り方
      ダールカレーの作り方


「敗戦直後は英語を聞くのが嫌でね。フランス映画は見たけれど、アメリカ映画はしばらく見る気になれなかった。」
「敗戦直後は英語を聞くのが嫌でね。フランス映画は見たけれど、アメリカ映画はしばらく見る気になれなかった。」

頭に残る愛国教育 正義は一つでない 疑いを抱く大切さ

私の戦争経験

 

私は1940年昭和15年8月22日神戸市灘区で生まれた。父は熊雄、母は逹子、いずれも大正3、4年生まれだから

27、8歳の時の子で長男の男誕生として大変喜ばれた。1940年は日本が仏領インドシナ進駐、日独伊三国同盟に調印をした年で前年の1939年にはドイツがポーランドへ侵攻し第2次世界大戦が始まっていた。1941年日本は仏領インドシナへ進駐、マレー半島、ハワイ真珠湾を攻撃して太平洋戦争が勃発。私たち家族は昭和18年1943年1月に生まれた次男の正徳と父の故郷佐賀県鹿島市に4人で疎開、1945年昭和20年終戦、翌昭和21年3月三男の桂一が疎開地の鹿島で生まれた。1947年昭和22年4月私たちは佐賀を出て福岡市城内町の復員者用の住宅が見つけて転宅、私は家の近くの簀子小学校へ入学した。父は母の祖父が以前に校長として勤めていた西南学院高等部の教職に就き私は毎朝通学の父と駅へ向かった。父はその頃体が弱くて戦争の従軍も経験していなく私の小学生の頃の間も無く近くの国立病院に結核患者として入院し療養生活を始めた。高校一年まで福岡で教育を受けたが私が高校一年の時に子供の教育のために関西に移った。兵庫県立伊丹高等学校を卒業して大学は京都の同志社大学文学部美学芸術学専攻に進み卒業後昭和38年に関西テレビに入り60歳時まで働き退職した。38年間の大阪暮らしはこれで終わるが母が高齢で一人暮らしの生活のため私達も神戸に移り今日に至る。

翻って1949年昭和24年には福岡市城内町で四男の弟光司が私と同じ8月22日に生まれていた。また私は32歳の時に妻の千恵子と結婚二人は去年めでたく金婚式を迎え、千恵子は喜寿を迎え私も84歳の高齢者となった。

 私は僅かばかり戦前の昭和15年1940年8月生まれだが戦争の経験や記憶などは疎い。しかし疎開先で経験した長崎のキノコ雲の遠望ははっきり私の脳裏に焼きついている。あんな悲惨な出来事だったとはつゆ知らず。

省みると父は朝鮮群山の出身で母は台湾台北生まれ、二人は神戸で結婚しどちらもが学卒後会社員や教職を務めていたので戦争には縁がなく家族は戦争の不幸な目にあまり遭うこともなかった。父が病弱で家族は怒涛の生活に見舞われたが、母は英語や日本語の教師をして知り合った米国人の教師の婦人と共に神戸に私達兄弟の教育のために移り住んだがそれが私たちの人生を大きく変えた。恩人の米国人ジャネット・ウオードさんのお陰て私たち兄弟は高等教育を受けれて夫々が幸せな人生を送れた事は戦争の思い出と共に今も思い返される。

昭和20年8月9日、長崎原爆投下の日、私は5歳、佐賀県藤津郡浜町(現在は鹿島市)の疎開地の家は親子4人と父の親夫婦、私の祖父母と父の妹、叔母の3人が中国北京から引き上げてきて私たちと同居していたのだが、その日私は友達と近くの山の手に住む叔母の家に遊びに行き叔母の家の畑で茄子を取って食べたりして遊んでいた。11時過ぎだった。西の空にキノコ雲が上がっているのが見えた。鹿島から長崎まで50キロ足らずの直線距離だからまあま違いがない、私は長崎へ投下された原爆をこの目で見たのだ。5歳だから記憶は不微かだが異様な空の雲に夏の終わりを感じたがその1週間後の昭和20年8月15日日本の太平洋戦争も終わったのだった。

もしもピアノが弾けたなら

                       作詞 阿久悠 作曲・編曲 坂田晃一

 

もしもピアノが弾けたなら

思いのすべてを歌にして

きみに伝えることだろう

雨が降る日は雨のよに

風吹く夜には風のよに

晴れた朝には晴れやかに

 

だけどぼくにはピアノがない

きみに聴かせる腕もない

心はいつでも半開き

伝える言葉が残される

アアアーアア・・・

残される

 

もしもピアノが弾けたなら

小さな灯りを一つつけ

きみに聴かせることだろう

人を愛したよろこびや

心が通わぬ悲しみや

おさえきれない情熱や

 

だけどぼくにはピアノがない

きみと夢みることもない

心はいつでも空まわり

聴かせる夢さえ遠ざかる

アアアーアア・・・

遠ざかる

ラララーララ ラララーララ

 

私は音楽が大好きだ。クラシックからモダンジャズ、シャンソン、歌謡曲それから吹奏楽・・・と何でも好きだ。高校生の時にブラスバンドに入ってから大学へと、ずっと音楽演奏に熱中したがそもそも中学の頃にクラシック音楽にに興味を持ちそれ以来ずっと音楽を楽しんでいる。クラシックでどんな曲が好きかというと

 ベートーベンではピアノソナタ「熱情」、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」、交響曲第3番「英雄」、第6番「田園」などなど、モーツアルトではクラリネット協奏曲、フルートとハープのための協奏曲、それに数々のピアノ協奏曲、交響曲では「ハーフナー」など多数、ショパンではピアノ協奏曲1番、2番は私の最も好きなピアノ曲だ。そのほか多数のピアノの曲には心が躍る。

そのほかドボルザークやチャイコフスキーの交響曲など、クラシック曲を楽しみ数々の愛好曲がある。

モダンジャズやシャンソン、ボサノバなどにも好きな曲が多数あり、日本の歌謡曲や演歌にもまた多数あるが上の「もしもピアノが弾けたなら」はたまに聴くといい曲だ。そのほか美空ひばりの歌もいい。ちょっとおかしい私の趣味、テーストだ・・・。ね。可笑しいだろう ?!

いつも私はNHKFMやアメリカのFM局WCPEのクラシック曲を聴いたりして音楽付けの毎日を楽しんでいる。WCPEFM局はアメリカのFMラジオ局でノースカロライナ州ウェイクフォレスト近くにスタジオがある。1978年7月17日に送信を開始、1982年に24時間クラシック音楽専門の局に改編し、リスナーからの寄付によって運営されていて広告(コマーシャル)を取っていない。2002年に私は甥の圭太くんがそこに住んでいて家を新築したお祝いにオレゴンに住んでいた弟正徳と共に訪ねて旧宅にも滞在一日中鳴っていたラジオ音楽を知って私は帰国後FMWCPE局に魅せられ我が家でも聴いて楽しんでいる。CMなしでクラシックを一日中楽しめる。